父の遺した三十一文字 8

●髙橋武夫はいかに思って死んだのか。

社会運動の舞台から退いた髙橋武夫は、では、あれほど「生得の特性に発する」と強調してきた生き方、すなわち社会的弱者の役に立っている実感を持つことで背筋を伸ばせる、という生き方まで転換してしまったのでしょうか。
いいえ。
存在を消した五十四歳以降は、その対象が、社会運動をしていたときの不特定多数から、訴訟の依頼に来てくださった縁ある個人に移っただけの話だったのです。じつはそうだったのです。
もちろん、運動量は比べものにならないほど小さくなりました。が、この種の行為はもとよりスケールでその価値を決められるものではありません。
ぼくはじつは、こののち、七十六歳であの世に逝くまでの残りの二十二年間こそが、父の価値観の集大成の時期ではなかったかという気がしています。
たしかに、社会的にはあえて記録にとどめるべきことの何もない、平凡で、誰の注目も集めない、無名で過ごした二十二年間ではあったでしょう。しかし、父はマス・メディアにさらされる社会に広く関わっていたときと同じように、いや、同じようにというよりも、自身がもう競争社会の損得や勝ち負けに振り回されなくなったからこそ、以前より無垢な、そして深々とした満足を毎日の生業から得られるようになったのではないでしょうか。

すべてみな 条件宿命とあきらめつ こころ安けく日々を暮らさむ
(父もまた生得の条件というものに思いを至らせていたことをこの歌で知りました)

原爆で 死にてありしと思ひなば 諦めのつくことにてありけり
(日常の煩わしい出来事を生死の鏡に映して眺め始めたことがわかります)

葉桜の 下にたたずみ思ふこと わが人生もこのごときかと

親と子の 絆は血のみ老いゆけば 心ははなれ孤独なりけり
(人はしょせん独りで生まれ、独りで死んでゆくものです)

静けさと 寂しさに満つ川べりの 一筋道を行くはわれのみ

わくらばの 落ちなむとして揺れており そのたまゆらをじっと見つむる

晩年の父の価値観の純化について、ぼくには忘れがたい思い出があります。それは大学生になって東京に出ていたぼくが帰省したときのことです。
我が家は大正時代にできた古い日本家屋に引っ越していましたから、各部屋のプライバシーというものがあまりありません。まして夏でしたから、仕切りの襖も開けっぱなし。父が訴訟の依頼人と話をする応接間の声は、居間に寝転ぶぼくのところにもよく聞こえてきました。
「それでセンセ、なんぼお礼をしたらえんですかいの」と依頼人の老婆の声。
「決まりはこういうことになっとりますが…」そこで父がおそらく紙に何かを書き示している間があって、そして。「じゃが、ええんですよ、あるときで。ないならないで、ええですよ」
ぼくはそのことをけげんに思い、が、直接父に問うのも憚られ、母にあとでこっそり尋ねました。
「訴訟費用をいらんとさっき言うのが聞こえたけど、いつもそう?」
「ぜんぶがぜんぶ、そういうわけじゃないが。この頃はそうなんよね。ああいうふうに変わってしもうて。一起ちゃん、玄関の仏さんの前のお供え見たでしょうが」
「見たけど…?」
「あれが訴訟費用のかわりよね」
骨董好きの父は、仏像も蒐集していました。そのうちの一つ、観音様の立像が玄関から入ったすぐの間に、来客と対峙するかのように置かれていたのです。お年寄りは玄関に入ると、まずたいていその観音様に手を合わせますが、その足元に、そういえば赤や緑の着色も毒々しい水羊羹が、古新聞の包み紙を解かれて供えられていました。
「駅裏のマーケットでね、買うて来るんよね。お金を払えんかわりにせめてこれを、言うて」
母は淡々と、そのことを特別不満に思っているふうもなく答えました。
ぼくは、原爆で子どもも財も研究成果も失った父に、「物欲(ほ)らない生き方」を尊しとする歌があることは、この歌集のまとめをするまで知りませんでした。
この思い出がそれと符合していたことをこのたび知り、新たな驚きに捉えられました。
また。
社会的弱者の役に立つことで喜びを得る人生、それで自分の存在理由を確かめられる人生。それもこの思い出にあるように、ひっそりとした行いに形を変えて、変わらず実践され続けていたことがわかったことも、ぼくにとってすばらしい驚きでした。

父は、辞世の歌を二度詠んでいます。
幕引き後は、余生を見つめる人生、死を一日また一日とたぐり寄せる人生、そういう心持ちだったのではないでしょうか。

これは父の死後、母から聞いた最々晩年のエピソードですが。
晩ご飯の支度ができたので父を呼ぶと返事がないんだそうです。あの部屋、この部屋と部屋数だけが取り得の日本家屋のなかをあっちこっちしても父がいない。
「散歩にでも行ったんじゃろうか…」
そう思いながら、うっそうとした庭の片隅にふと目をやると、父が薄暗い庭石に腰掛けて、暮れなずむ西の空をじっと見ていたのだそうです。
そのときを初回として、以降同じことが幾度となくあったとか。
その話を聞いた瞬間、ぼくは子どもの頃に飼っていた犬が死んだときのことを思い出しました。
その犬は死ぬ間際、人間が膝を崩しているような横座りをして、日が沈む頃になると、西の空に向かって喉を上げ、
「ウオウオウ、ウオウオウ」
と吠えたのです。
その寂しげな声と姿はいまでも忘れられませんが、死期が近づくと、人間も犬も、自分がこれから昇ってゆく場所がわかっているのでしょうか。
残光に染まる儚げな西の空には、死の際になると何が見えるのか。仏教では、人間界から十万億の仏土を隔てた西方に極楽浄土があると言いますが、父には、そしてあの犬にも、そこが見えていたのでしょうか。

ぼくは、あんなに必死で祈ってもらって生まれた子どもであったのに、親の期待にことごとく背き続けた人間です。そういう意味でも、水泳や原爆で亡くなった兄姉のあけた虚を代わりに埋めることなどできませんでした。いや、むしろ虚を大きくしたのだと思います。
ですから、こうして歌を通じて父と母の人生をたどり、それを反芻することは、ぼくにとって墓前で手を合わせることと同じ意味を持っています。母は九十七歳で亡くなりましたから、その年齢にはまだ時間がありますが、父の死まではあとわずか十年です。
もとより父とぼくとでは、生得の条件が大いに異なります。
が、父の人生をたどってみると、父の指し示している価値観が、いかにぼくの六十六年間で感得した価値観と重なり合っているか、その重なりの大きさにあらためて驚きましたし、そこに親と子の繋がりの意外を感ずるしだいでもあります。

父は、昭和四十八年(1973年)四月十日の夕刻、風呂上りに脳溢血で斃れ、昏睡したまま、翌日帰らぬ人となりました。
ぼくはかつて、演劇の道に進むため大学の授業にまったく出ず、そのことで親を欺いていたことを謝罪するために、十九歳の真冬、九州行きの寝台特急に乗って郷里広島に向かいました。そのときと同じ特急になんとか間に合い、翌早朝実家に着きました。
枕辺に座ると、父はすでに意識がなく、ただ大口を開けて、轟々と息を出し入れしていました。できることといえば、割り箸の先に脱脂綿を巻きつけて、喉に詰まる痰を取ることだけでした。
「痰を詰まられせて父を死なせてはいけない」
冷静になれば、もはや理屈の通らない行いなのに、少年のようになって必死にぼくはその作業に没頭しました。
思い出されるのは、医者が臨終を告げたとき、天井から父が見下ろしている気がして、そこを振り仰いだことです。枕元の電気スタンドだけの暗い天井でしたが、それは青空を仰ぎ見たような晴れ間でした。

なんという一生だったのでしょうか。その生い立ち。長じてからの社会との摩擦、闘い。挫折。子どもの死。
何も父が特別不運だったというのではありません。が、ぼくが思うのは、そういうプロセスを通じて、人は何に至るのか、何に至るべく生まれているのか、ということです。
人それぞれに生得の条件が異なりますから、ゴールも自ずから一律ではないでしょう。ただ、父の場合で言えば、父はその生い立ちにより「ひとさまのお役に立つ仕事に就きたい」と念じ、そしてその実現のため国や法、制度と闘い、その闘いをやめたとき、こんどは身近にいるか弱い、無器用な人々に身を寄り添わせる生き方に転じた。そういうプロセスが見て取れます。
国家だの社会だと制度だのと言わなくなって、父の場合は初めて、人に喜ばれることで自分も喜びを得る、そういう素朴な喜びを実感したのではないでしょうか。
すばらしい終焉だったとぼくは思います。そのすばらしさは、玄関の仏様の前の、新聞紙にくるまれた原色の水羊羹が語っていたと思います。それにまさる感謝はありません。ぼくもその水羊羹に手を合わせたい気持です。
長い間読んでいただいてありがとうございました。辞世の歌を最後にご紹介してお別れします。
亡くなる六年前、七十歳の辞世の歌。

我が道を 往きて悔なし悲しきも 憂きことも今は遠き思ひ出

そして亡くなる前年、七十五歳の辞世の歌。

白菊の 黄菊のきそひ咲く日なり いざ語りなむいざや飲まなむ

晴れやかにこの世を終えたことがわかります。父ちゃん、また会いたいですね。