父の遺した三十一文字 7
●そして、常闇(とこやみ)のような沈黙へ。
この共産党からの離党を最後として、父はいっさいの政治活動、社会運動から身を退きました。
広島という狭い地域社会、隣人の顔が肩越しに見えるその距離においてさえ、髙橋武夫は確認できないほどになりました。
「表舞台から消え去った」
そういう印象を受けます。
父の性向には、たしかに極端から極端に振れる特徴があったように回想します。
熱するのも極端なら、冷めるのも極端。
あるときは自らの血で認めたラブレターを送り、またあるときは「バクダン男」と異名をとるほどのエネルギーを爆発させ、逆のケースでは、白人の落とした原子爆弾で子どもを失った憤りから白人社会すべてを憎悪し、長年の精神的支柱であったキリスト教にまで背を向けてしまった徹底ぶりも、その好例と言えます。振れる幅の大きさ、振れるスピード、どちらにも常人にはない爆発力が宿っていたように思います。
この幕引きは、言ってみれば、まさにそういう性向の最後の大爆発(いや大陥没?)でした。
生涯記の既述も、以降は担当した主な事件名の列記と、家族の簡単な身上書だけしかありません。
「これにて我が人生は終焉せり」
そうは書いていませんが、生涯記のまとめ方だけを見れば、明らかにそう語っています。
自由法曹団の弁護士としての活動についても、昭和二十四年に起こった戦後史に残る松川事件(かの吉川英治、川端康成、志賀直哉、武者小路実篤、松本清張など多数の文化人の支援もあって日本中の耳目を集めた国家的冤罪事件)の弁護団の一員となった記述、および昭和二十五年の連合国軍総司令官マッカサーによるレッドパージ(共産党員とその同調者一万人超の人々が追放された事件)の弁護にたった記述を最後として、あっさりと終わっています。
あれほど自身の背骨となり血肉となった活動母体、自由法曹団の弁護士としての仕事にさえ、もはや心理的に遠い距離を置いたかに見えます。
離党した昭和二十五年十月、それはちょうど五十四歳の誕生日を迎えた月にあたりますが、そのときから先、七十六歳で死ぬまでの二十二年間、髙橋武夫は世間的にはまるで存在しなかったかのようなのです。
ふつうであれば、離党はしても、社会的弱者のために生きる別な活動方法を模索する、つまり局面を変えるだけで表舞台には居続けるでしょうに、そうはしなかった。
それはいったいなぜだったのでしょうか。何がいったいあったというのでしょうか。
この激変の奥を探るために、ぼくはここで、先に「後に触れる」とお約束した歌集のタイトルが消されている理由、そこに話を繋ぎたいと思います。
そのときぼくは、
「病的なほどきれい好きで、物事を隅から隅までおろそかにすることのない几帳面な父が、肝心の表紙の、それも大切なタイトルを消したままに汚して放置したのはなぜか」
という疑問を呈しました。
「無題にしたいなら、さっさと新しい白紙の表紙につけかえるのが父のやり方であろうに、つじつまが合わない。あえて三つのタイトルを消したまま残した。それも、わしはタイトルをわざわざ消したのだ、という意思を声高に伝えるためであるかのように、きちんと定規をあてた太い赤い二本線を引いて」
そこには、いったいどんな意思が潜んでいるのだろうかと。
さて、その答なのですが…。
それをぼくは次のように考えたいと思っています。
まず第一に思うことは、
「歌に託した我が人生は、限定的なタイトルでくくれるものではない」
という意思表示ではないのか、ということです。もちろん、そうであったろうと推察します。
が、そういうレトリック上の問題だけだろうか、という思いがすぐに追っかけてきます。
タイトルを消し、そしてその痕跡をわざわざ残した行為と、世間に幕を引いた行為との間には、何か同じ哲学的な意味、同じ人生観が横たわっているのではないのか、そういう気がしてなりません。
すなわち、第二に思うこととは、タイトルを消したのは「無題にした」という意味ではなく、
「人生を修飾しようとする行為そのものが空(くう)である」
そういう価値観を伝えたかったからではないのか、という解釈です。
作者はタイトルに、ただ単に「内容を正しく要約しよう」という気持だけでなく、「より魅力的に見せたい」、「これで世間に牙を立てたい」、「自分をデモンストレートしたい」などなど、思いのたけを凝縮します。交錯するのは気負い、ポーズ、自負…。ひとことで言えば自己顕示欲。もっと言うなら、自己顕示欲を支える現世欲(権勢欲、名誉欲、金銭欲)です。
タイトルはそういう意味で作者の人格の投影かもしれません。人格が大げさなら、個性、人生への態度、あるいは価値観が憑依したものと言いなおしましょうか。
父がタイトルという存在に、そこまでの思いを巡らせたとはかぎりませんが、しかし、死の前年の六月、歌集をまとめ終わったとき、
「これをいまさら力みかえって飾り立てることはしたくない」
少なくともそういう気持に支配されたのではないか、とぼくは想像するのです。それも、そのとき不意にそう感じたのではなく、二十年以上前から着床していた価値観によって。
そう思うには、じつは理由があります。
幕引き時、そして歌集をまとめた前後。二十年を隔てて詠まれた同じ価値観の歌をぼくは発見しました。
物欲(ほ)りて 生きとふことの愚かさを 今にして知る子を喪ひて
名もいらぬ 役も欲(ほ)りせず樹の枝を 風のわたるを見る心はも
前の一首は幕引き直後の五十四歳に詠まれたもの。
そしてあとの一首は最晩年の七十五歳に詠まれたものです。
前の一首から、父は幕を引くと同時に、この世の争いごとの外に出ることにしたのだということよくがわかります。また、あとの一首からは、父は依然としてその価値観を養い続けていたのだということがよくわかります。
言い換えれば、まず父は、亡き子の弔い合戦を終えたのを境にして、
「長い間の憑き物が落ちた…」
そんな気持になったことが察せられます。
この場合の憑き物とは、欲。すなわち今生での勝ち負け、損得、権勢、名誉不名誉などの、父がそこから出た価値観。要はつねに結果を問い、結果を競い合うこの世の価値観のことです。
だから父は幕を引いたのであり、それから二十一年後、渡る風に我が人生を吹かせながら、父は名誉からも役職からも遠く隔たって、人生の総決算ともいえる歌集タイトルを消したのではないかと思うのです。
「人生を修飾しようとする行為そのものが空である」
その思い。
それは、幕を引いた髙橋武夫の、五十四歳以降の髙橋武夫の、絶頂期でさえ目玉を涙に震わせていたあの髙橋武夫の、噛みしめ、反芻しながら養い続けた達観だったのではないか。
そのようにぼくは考えています。
★
こうして戦前から戦後の父の変転を見てきますと、父の人生からは万人共通の避けがたい現実が浮かび上がってまいります。
それは、何度も何度も言いましたが、
「人生とは、なかなか思いどおりにゆかんもんじゃのう」
という現実です。
父はずっとそういう現実に「ナニクソ!」と刃向かい、つまり思わしくない結果を受け容れようとはせず、転んでは起き、また転んでは起きしてきました。が、戦後の社会運動への復帰とそれからの離脱、言い換えれば亡くなった子どもたちのためのドン・キホーテ的弔い合戦の終焉によって、
「打てる手はぜんぶ打った。やるべきことは、やり尽くした」
その心境にやっと到達し得たのではないかと想像します。
ある種の達成感…でしょうか?
いや、達成感とは異なる感じがします。
父は、成し遂げた、のではなく、この先に敗北が確実な断崖があることを知っていて、そこに向かって突進し、そして予定どおりに崖から墜落した。いうなれば、そういうことだったのではないでしょうか。
反骨に生きた父が、思いどおりにゆかなかった人生と決着をつけるためには、絶体絶命の断崖に向って走る。その最後の反骨。まるでおのれの人生に反骨するような反骨走りが最後の最後に必要だったのではないか、と考えます。
そして予定どおり、父は社会的に断崖から墜落しました。
が…。
ほんとうは墜落をしませんでした。
断崖の淵から一歩踏み出したとたんに、父の意識自体は宙に浮き上がったのだろうと想像します。
先ほど言った「憑き物が落ちた」のはそのときでしょう。
そして、憑き物が落ちた髙橋武夫は、目の下に自分の関わってきた世間を眺め下ろしながら、これまでしゃにむに目的を叶えよう、なんとしても結果を出そう、そればかり執着して生きてきたけれど、
「結果ではなく、プロセスこそ大事だったのではないか」
人生は結果ではない。大事なのは何を積み重ねてきたか、そのプロセスがすべてだったのじゃないか。
そういうしみじみとした感慨を湿った五十四年間から搾り出したのではないだろうかと推察するしだいです。
そしてさらに。
父はそういう心境になったことさえ、
「もはや他人に言う必要なし」
そうも思ったのではないでしょうか。
最晩年になって、歌集のタイトルを消してみせるという象徴的な手法で、わずかに自分の価値観を表しはしましたが、その意図だって
「誰にも伝わらんでええ」
そう考えていたことは明らかでしょう。
ぼくがここまでの解釈をするのは、けっして親と子だからではありません。あの父の子だからではなく、誰であれこのように考えないと、死までの二十二年間の、まるで常闇の扉を閉ざしたような極端な沈黙の説明つかない、そう感じられるからなのです。
★
では。
思いどおりの結果が出なかった自分の人生をようやく肯定できるようになった髙橋武夫は、いったいどんな歌を詠むようになったのでしょうか。
答。
それはまだ五十代半ばながら、早くも人生を総括したような歌となりました。ま、当然と言えば当然のことですが。
それらの歌を少しご紹介します。
叛骨と 孤高を愛し生きて来し わが過ぎし日に悔いはあらざり
こしかたは いばらの道でありしかど いまは安けく死にゆけるかも
平凡に 生くることこそ幸せと 妻と語らふ齢(よわい)となりぬ
やがて死ぬ くよくよするなやがて死ぬ 呑気に暮らせものを思はず
過去はみな 忘却の淵に沈めきて いま仰ぎみる蒼き真(ま)洞(ほら)よ
★
同時に。
物事の陰に入ったように暮らし始めてから、父は歌をあまり作らなくなりました。
作っても、原爆の歌が猛々しい筆致の、絵の具の盛り上がった油彩画のようであったとすれば、幕引き後は水墨画を想わせる歌が多くを占めるようになりました。
作歌姿勢は人生観そのままです。
前に、生き残った子どもたちへの態度のことでも同種の話をしましたが、父は幕引き以降、身の回りに起こることと自分との間に、静かな大きな川の流れを横たえたかのような印象を受けます。
花びらが 落つるしじまを寺の鐘 鳴りいでにけり模様のごとく
ことごとく 葉を落としつくして冬木立つ 老いにしわれの心に触れて
雲の峰 うごかぬままに日は暮れて 人のかよはぬ道は遠けれ
人の世の わづらひ事や心おもく 深山に入りて樹に對(むか)ひおり
けふこそは 我が自主性を投げ捨てて 子の意のままに遊び暮らせり
川澄みて 月まろくうつるその上を 静かに大根ながれゆきたり
庭石の 皺のくぼみにかぼそくも すみれ咲きおり晝のしじまに
にわとりを 生きたるままで毛を毟る 男の微笑さむざむと見し
柿の葉の 朱(あけ)あざやけし大空の 蒼きが傘のごとくかぶさる
島と島 かさなるあたり朧(おぼろ)にて 夕月照れば匂ふがごとし
あけちかし 亡き子の夢をみしからに 心あかるく道を歩めり
ぼたん花 咲き極まりてただ一輪 浮かべる夕べ風も動かず
ねむり足り 床上に聴く木の枝を すべり落ちたる初雪の音