父の遺した三十一文字 1
子どもの頃の夕暮れ時の思い出は、焚き火の匂いがしています。
そばには老人がひとり佇んでいます。
それは父だったのかもしれませんが、もういまでは自分であるような気もします。
●髙橋武夫の生まれた家と時代。
父、髙橋武夫は三輪林吉、キヌの四男として、明治二十九年(1896年)十月一日、広島市東魚屋町(現広島市中区立町、本通り)に生まれました。
家業はわかりません。三輪は代々神職につくことの多い姓ですが、東魚屋町だったあたりは当時もいまも商業の中心地、飲食店の多い市の中心的繁華街です。なんらかの商いをしていたのではないでしょうか。
父は生まれた次の年、明治三十年十一月一日、一歳と一か月で髙橋家に養子に出されました。
出されたといっても、父がとくに悲運を背負っていたというわけではありません。兄弟姉妹が均等に財産を相続する現代とは違って、長男でない男子は跡取りのいない養子先を見つけ、そこの家督を相続するというのが賢明な人生設計だったからです。
その意味で、父は悲運どころか、幸運な人だったと言えるかもしれません。
多く産んでもその多くが死んだ「多産多死」の明治時代、そして子宝に恵まれないからといって、現代のような不妊治療もないこの時代、養子縁組制度はごくポピュラーなお家存続手段であり、同時に二男以下に生まれた者にとっては垂涎の人生お助け手段だったというわけです。
とくにほんの数年前まで、「家督を継ぐ者は徴兵を免除する」という特典までありましたから、たとえば農家の戸主の場合、約五人に一人が養子だったという話です。
父が養子に入った先、髙橋の家は、養父芳太郎が二代目。初代は善平といって、安芸の国豊田郡久(く)芳(ば)村の生まれです。生年は文政二年(1819年)。
髙橋家は名字帯刀を許された庄屋の代表、割庄屋でして、その住居は戦国時代の山城のように豪壮だったらしく、村人たちから「鷹ノ巣城」と呼ばれていたそうです。
しかし、嗣子でなかった善平は長じて分家し、農を生業としました。
そして長男芳太郎の生まれたのが嘉永六年(1853年)。
嘉永年間といえば、ロシア、イギリス、アメリカなどの船が次々に来航して、日本という牢固な二枚貝の隙間に力ずくでサーベルをこじ入れ、やがて維新へと加速させていった井伊大老の時代でした。
その芳太郎。
政体が変わり、明治の時代もようやく落ち着きをみせ始めると、一大決心をしました。
「これからの日本人、草履、下駄はもうしまいじゃろう。わしゃあ革の履物を商おうと思う」
そう言って農を捨て、中国山脈のふところから瀬戸内海を臨む県都、広島市に移り住んだのです。
それを先見の明と言うのかどうか。ただ、西洋文明が地方にまで及び、革靴を売る店をはじめ、洋裁店、写真店、理髪店、牛肉の切り売り店など、それまで日本にはなかった商いが刺激的に始まった時代ではありました。
父が入籍したとき、芳太郎は四十四歳でした。
その歳まで結婚しなかったのか、そうではなかったのか、とにかく独り身でした。だから父は、当然ですが乳母に育てられたということです。しかも男親は育児に首を突っ込まなかった時代でしょうから、父は肉親の情を知らずに育ったということにもなります。
その芳太郎、父が十歳になった明治三十九年十二月、再び大決心をします。五十三歳の芳太郎は田中ショウという女性と結婚をしたのです。
ショウは文久三年六月六日生まれ。ですから、そのとき四十三歳でした。
当時の平均寿命を調べますと、男女とも四十を少し上回る程度でして、ショウの年齢だと世間的には「老女」と呼ばれたようです。ちょっと乱暴ですが、平均寿命から単純換算をすれば、いまなら双方がなんと九十歳を超えての結婚という印象になるのでしょうか。ショウも初婚なのかどうか、それもまた不明です。
いったい何を思っての結婚だったのでしょうか。
「この子には母親が必要じゃろう」
そう考えたのでしょうか。自分はとっくの昔に、いつ死んでもおかしくない年齢にさしかかっていました。だから、後々のことを心配したのでしょうか。それとも、田中ショウとの間にのっぴきならない、あるいは素敵な縁が生じたのでしょうか。いまとなっては、勝手な想像をめぐらせるしかありません。
父が養子に入った頃、芳太郎は本業はさておき、すでに相場に熱を入れ始めていました。広島でも株の取引所が開設されていたからです。
その結果、髙橋家は成金と破産の間を揺れ動く振り子のような生活になり、儲かったときには町内のみんなを招待して飲めや歌えのドンチャン騒ぎ。おかげで、たいそう人気者ではあったということです。
そして明治四十三年。その破天荒な生活にも終わりを告げるときがきました。養父芳太郎、五十七歳。ついに不帰の人となりました。死因は脳溢血でした。
余談ですが。
高血圧だった父は、自分も同じ脳溢血で倒れることを極度に恐れ、晩年、好きな酒を控えめにしていました。そして誰に教わった健康法か、前の晩に根コンブを水に浸しておいて、その水を毎朝欠かさず飲んでいました。コップは決まって台所の出窓に置いてあったのですが、小太りの父が腰に手を当ててそれを飲む逆光の後ろ姿と、コップのなかのふやけたコンブの不気味さは、いまでも鮮明な映像として残っています。
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さて、いよいよ父、髙橋武夫の話に移ります。
父の人生を振り返ると、非常に大きな転換点が二度あったように思います。
その最初の出来事が養父芳太郎の早すぎる他界ではなかったでしょうか。
もちろん先ほども言ったとおり、平均寿命を基準にすれば、早死にというわけではありません。が、父はまだ十四歳の少年にすぎませんでした。
おまけに父が相続した家督は、運悪く振り子がどん底の方に振れたときだったのでしょう。父は多感な十代、貧しさの底であえぐことになり、四年前から共に暮らし始めた老女、その、母とはなかなか呼びがたかったにちがいない、むしろ共同生活者とも呼ぶべきショウと一対一で向き合い、「この世のなんたるか、生きることのなんたるか」をいやでも考えさせられることになったのでした。
じつは。
父が養子であったことは、この本をまとめるに際して、戸籍謄本をじっくり見直してみて初めて知ったことでした。
「そんな馬鹿な…」と思われることでしょう。
しかし、言い訳をするようですが、ぼくは父からも母からも、父が養子であったことは聞かされていないどころか、ぼくの七歳まで存命していたショウお婆ちゃんは、まぎれもなく父の産みの親というインフォメーションだったのです。
なぜ三輪という生家のことを父はいっさい語らなかったのでしょうか。
その理由には、十代の極度の困窮生活が横たわっているのではなかろうかとぼくは推察しています。
どういうことかといいますと…。
養子に出れば、もちろん法的血族関係は生家との間では消滅します。
が、産みの親が、
「芳太郎さんが死んだんなら、成人するまで武夫の面倒は陰に日向にみてやろう」
そう言うこともできたでしょう。あるいは養子縁組を解消することだってできたはずです。
が、それはしなかった。なぜか。
その答は、養母であれ、すでに母という存在があったことが大きいと思います。
しかし、父の心には
「自分は産みの親から棄てられた…」
そういう傷として、そのことが深く心に突き刺さったのではないでしょうか。十四歳の少年にも、理屈ではなんとか理解できることだったかもしれません。が、感情的には到底呑み込むことのできない仕打ちだったのだと思います。
父は幼心(おさなごころ)に
「ぼくは髙橋として生きる、三輪のことは忘れるんじゃ!」
そう心に決めたのだと思います。そしてその思いは、その後の生活が苦しくなればなるほど強固になったのだと思います。
父の写真が何枚か残っていますが、何歳のときであろうと父の目は、人生の絶頂期の得意満面の記念写真であろうと、哀しみに沈んでいます。目玉が涙に浮かんでブルブル震えるているかのようなのです。
その哀しみは、生みの親に訣別したときから溜まり始めたものだと、ぼくは確信します。
父は後に、虐げられた者、つまり社会的弱者に肩入れして行く生活を送るのですが、その衝動は、自分がそのような十代を過ごしたからこそ醸成されたものだと、これまた確信するしだいです。
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父が生まれた明治二十九年は、富国強兵を推進し、背伸びの上にも背伸びを続ける日本が、日清戦争の大勝で列強のなかに割って入ろうとしている時代でした。
養父の亡くなったとき、父は、東京に次いで全国で二番目に開校された広島高等師範学校付属の小学校を出て、県立広島商業学校に進んだばかりでした。
子ども心に、父は弁護士になりたいと思っていたのだそうですが、「商人になれ」という養父の意思で、商業学校にいやいや通っていたとのことです。が、そのいやいや通っていた学校も一学年終了をもって中退せざるを得なくなりました。家計を支えるために、自分も働かなければならなくなったからです。
この頃の教育制度を調べてみましたが、義務教育は尋常小学校の四年間のみ。その先に二年間の高等小学校があり、さらに進学を希望する者には五年間の中学校、三年もしくは四年の高等学校か専門学校、高等師範学校などが待っていて、大学は四つの帝国大学だけという時代でした。
四年間の義務教育の就学率はすでに95%を超えていましたが、中学校への進学者となると、適齢児童の百人に三人ぐらい。高等学校となると二人ぐらいしかありませんでした。
それを思えば、父には不本意な商業学校だったとはいえ、中等教育まで受けさせてもらえたというのはありがたい話だったのです。養父は、自らは文字どおり投機的な人生を歩みましたが、養子の教育に関しては堅実な一面を示し、父もまた親にそうさせるだけの潜在能力の高さを示してみせた、そういうことだったのでしょう。
しかし、残念ながら、相場師だった祖父の教育投資はあっけなく頓挫しました。
夫が亡くなったとき、ショウは四十七歳でした。もちろんその時代、「老女」と呼ばれる女性に就職口などあろうはずがありません。ショウは近所の縫い物仕事をもらって、わずかなお金を稼ぎ始めました。
父も一学年終了を待って鉄道教習所に入り、「トン、ツー、トン、ツー」というモールス信号でおなじみの電信技術の修得に精を出しました。
いったい、どういう思いでその職を選んだのか。
それを推し量るためにいまの時代感覚に置き換えてみますと、当時の電信技術者の重要性、先端性は、さながら今日のIT産業のオペレーター、それにほぼ相応するということがわかりました。電話に取って代わられるまで、鉄道における電信掛はなくてはならない存在であり、けっこうな専門職の一つだったと言えるようです。
とはいえ、です。その教習は案外短期間でして、これは他県教習所の一般的な例ですが、訓練に半年、現場での見習いに三か月、そののちに採用試験、というあっさりしたものでした。
しかし別な見方をすれば、
「まだ十四歳の少年でも、短い訓練でお金をいっぱしに稼げるようになる仕事は何じゃろうか」
その答が鉄道の電信掛だった。父が家計を助けるためにこの道を選んだ唯一無二の理由は、それだったのでしょう。
かくして、めでたく広島駅の電信掛となったはずの髙橋少年でしたが、
「意に反して、最初は改札掛からやらされてのう」
ということでした。
自分も本来はそうであったはずの中学生が客として改札を通ると、この身が悔しく、また恥ずかしく、顔を上げられなかったそうです。人生に対する気概、向上心、そして自負心、それらが旺盛であればあるほど、腹の底には煮えくりかえるものがあったのでしょう。
その頃の「髙橋は駅で切符を切っとる」とからかわれた悔しさがどれほどのものであったか。
そのことを知ったのは、上京してきた晩年の父と某駅の改札を通るとき、父が学校を出たての若い駅員さんに対して目礼し、とても丁寧に切符を手渡していたのを目にしたときでした。ぼくはなぜそのようにまでするのか、尋ねました。すると、父は少年時代の体験を初めて息子に語ったのでした。
父は、商人になることを強いていた養父の死によって、自分が目指したかった本来の道を歩み始めることになりました。
といっても、頭脳と家庭環境に恵まれた者が胸を張って進むコース、官立の旧制中学から旧制高校、そして帝国大学へと進むコースからはもとより外れています。
父の歩む道は、以後、自ずから泥まみれのゲリラ戦の様相を呈しました。
第三者的な言い方になって恐縮ですが、父髙橋武夫は三輪家に生まれた時点ですでに、選良と呼ばれる人が歩む道をそれていたと言ってもよいのかもしれません。言い方を変えれば、そもそも父は社会の底に溜まっている濁り水のなかに生まれ出ていて、中学校への進学で幸運にも水面に顔を出そうとしたのですが、養父の死によって再び水底に頭を抑えつけられた、そういうことだったのです。
といっても、そのことを好くない事のように言おうとしているのではありません。逆境であろうとも、それゆえにこそ実りある人生を歩まれた人は大勢おられるのですから。
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明治時代、弁護士がまだ「代言人」と呼ばれた頃、それは学識も品性も大したことのない、もっぱら自己の利益を図る職業、そういう評判が大勢だったようです。が、父の幼い頃には社会的な地位が上がり、世人から尊敬を受けるまでになっていました。
それには、明治も三十余年たって、法律や裁判制度が世の秩序を整える血液としてやっと循環し始めた、そのことがベースにあったのでしょう。また、弁護士になるための厳しい試験制度が整ったこともあったのだろうとも思います。
しかし何よりも弁護士という職業が青雲の志を抱く若者の心をとらえたのは、それが商人のように私利私欲、おのれの損得だけのために働くのではなく、天下公衆の正義のために働く義侠的職務であることが広く認識されるようになった、そのおかげだと言われています。
「それに、わしは弁論が好きじゃったけえ」と父は言いました。「弁護士を志す前から、川原でよう演説の練習をしたもんじゃ。弁論大会で、上級生を退けて優勝もした」
ゲリラ戦で弁護士を目指す第一歩は、法律専門学校に入学することでした。
当時、高等教育を受けようと思えば、帝国大学か高等師範学校か若干の専門学校に行くしかありませんでした(その師範学校と専門学校は、ちょうど父の入学時に「大学令」が公布されて大学となりました)。
父は法律専門学校に入るための入学検定試験を受ける勉強を始めました。
電信掛をしながら、出勤前と帰宅後はもとより、職場のちょっとした休憩時間にも本を手放さなかったそうです。
「それを大人の駅員によういじめられてのう」と、当時のことをよく口にしていました。「電信掛がなして勉強するんじゃ言われて」
教育事情は前述のとおりですから、鉄道の諸先輩はおそらく四年の義務教育だけか、プラス二年の高等小学校を終えただけの人がほとんどだったのではないでしょうか。だから、いまなお勉強を続けようとする者がいると、それだけで目ざわり、かつ神経を逆撫でされるような気分がしたのではないかと想像します。
父は余分の掃除を課せられたり、本を読んでいると電灯を消され、あからさまに悪口を言われ、ついには職場での勉強を禁止され、それでもまだこっそり勉強をしていると、ついにのけ者にされたそうです。
明治時代というのは、言うまでもありませんが、身分制が崩壊したおかげで、勉学が世に出る最大の武器となった時代です。
江戸時代は農民や商人、職人がどんなに勉強しても、農商工という階級から外には出られません。だから、勉学と立身出世が結びつかず、だからこそ逆に学ぶことが純粋に楽しまれ、また人格を磨く手段とも考えられたと言われています。
が、父の時代には、すでに勉学が人格形成や楽しみからはずれていました。代わりに、貧困にあえぐ者がそこから脱しようとする際の最有力手段、つまり勉学が立身出世と一対になっている時代でした。もっと言えば、いまの学歴主義が芽生えた時代、そういうことでもありました。
もしかしたら、しゃにむに勉強する幼い父の姿は、先輩諸氏から見れば、ガチガチの立身出世主義者に映ったのかもしれません。が、父とすれば、働きながら中学校、高等学校ぶんの教科をぜんぶ独学しなければいけないのですから、他人の邪魔や中傷を気にしているヒマなどなかったのだろうと思います。